チャプレンからの今週の言葉チャペル
何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい。めいめい、自分のことだけではなく、他人のことにも注意を払いなさい。
(フィリピの信徒への手紙 2章3~4節)
立教大学チャプレン 藤田 美土里
この言葉は、異邦人伝道を行ったパウロとテモテがフィリピの教会に宛て送られた手紙の一節です。利己心や虚栄心という言葉から誰もがハッとし、我が身を振り返らせられるみ言葉ではないでしょうか。
私たちが今手にしている聖書は、分かりやすいようにタイトルがついています。ここには「キリストを模範とせよ」というタイトルが付いています。人間には他者から認められたいという承認欲求がありますが、ともするとそれだけに留まらず、あの人には負けたくない、誰よりも優れていると認められたいという利己心や虚栄心が湧いてきます。
続けて「へりくだって」という言葉が加えられ、相手より一段低い位置に立つよう求められています。それによって、自己中心的な思いを戒めるよう呼びかけられているように聞こえます。しかし、すべてのいのちを「救う」ために十字架に架かられたイエス・キリストの姿勢を示しているならば、さらに深い意味が込められているように思うのです。
私たちの利己的な行いは、決して無かったことにはされず、周囲に影響を与えていきます。それは差別や対立などの破れ目となってこの世のどこかに現れてくるのです。争いや環境破壊が進む世界がいま直面している様々な問題に思いを巡らせたとき、その思いは確信へと変わります。
私たち人間は、この世のあらゆるいのちとの繋がりの中で生きるように置かれています。「他人のことにも注意を払いなさい。」という言葉は、自分のいのちと他者、あらゆるいのちは繋がっており、決して無関係ではないことを教えているように聞こえてきます。
今世界は、再び戦争・対立・分断が顕わにされ、地球環境問題も悪化しています。私たちが「平和」を願う時、この言葉はあらゆる被造物の「救い」「平和」を造り出す力を持っています。
「へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考える」のは、なかなか難しいですが、「平和」を造り出す力に気づくならば、その者たちの周囲から少しずつ「平和」が広がっていくことでしょう。人々の尊厳は守られ、傷つけてもよいいのちなどひとつも無いことを知るでしょう。
それぞれに与えられた賜物や役割に違いはありますが、本来、神の前に与えられた尊厳は等しいことを心に留めながら、日々み言葉を通して養われますように願います。
2025年5月19日
この言葉は、異邦人伝道を行ったパウロとテモテがフィリピの教会に宛て送られた手紙の一節です。利己心や虚栄心という言葉から誰もがハッとし、我が身を振り返らせられるみ言葉ではないでしょうか。
私たちが今手にしている聖書は、分かりやすいようにタイトルがついています。ここには「キリストを模範とせよ」というタイトルが付いています。人間には他者から認められたいという承認欲求がありますが、ともするとそれだけに留まらず、あの人には負けたくない、誰よりも優れていると認められたいという利己心や虚栄心が湧いてきます。
続けて「へりくだって」という言葉が加えられ、相手より一段低い位置に立つよう求められています。それによって、自己中心的な思いを戒めるよう呼びかけられているように聞こえます。しかし、すべてのいのちを「救う」ために十字架に架かられたイエス・キリストの姿勢を示しているならば、さらに深い意味が込められているように思うのです。
私たちの利己的な行いは、決して無かったことにはされず、周囲に影響を与えていきます。それは差別や対立などの破れ目となってこの世のどこかに現れてくるのです。争いや環境破壊が進む世界がいま直面している様々な問題に思いを巡らせたとき、その思いは確信へと変わります。
私たち人間は、この世のあらゆるいのちとの繋がりの中で生きるように置かれています。「他人のことにも注意を払いなさい。」という言葉は、自分のいのちと他者、あらゆるいのちは繋がっており、決して無関係ではないことを教えているように聞こえてきます。
今世界は、再び戦争・対立・分断が顕わにされ、地球環境問題も悪化しています。私たちが「平和」を願う時、この言葉はあらゆる被造物の「救い」「平和」を造り出す力を持っています。
「へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考える」のは、なかなか難しいですが、「平和」を造り出す力に気づくならば、その者たちの周囲から少しずつ「平和」が広がっていくことでしょう。人々の尊厳は守られ、傷つけてもよいいのちなどひとつも無いことを知るでしょう。
それぞれに与えられた賜物や役割に違いはありますが、本来、神の前に与えられた尊厳は等しいことを心に留めながら、日々み言葉を通して養われますように願います。
2025年5月19日
主は私の羊飼い 私は乏しいことがない(詩編 23編1節)
たとえ死の陰の谷を歩むとも 私は災いを恐れない あなたは私と共におられ あなたの鞭と杖が私を慰める(詩編 23編4節)
立教大学チャプレン 大森 明彦
初期キリスト教徒が迫害を避けて、地下で礼拝を守った時代があります。1世紀末~3世紀末にかけての200年間カタコンベと呼ばれる地下洞窟があちこちに作られました。それは初期キリスト教の時代であり、ローマ帝国の最盛期でもありました。キリスト教徒たちはカタコンベに死者を葬り、礼拝のためにも集まりました。カタコンベの壁面には当時の壁画が残り、石棺には彫刻が施されています。
その中でよく使われたモチーフに「よき羊飼い」があります。「よき羊飼い」は若々しい羊飼いが小羊を肩にかつぎ、羊の前後の脚を両手でつかんでいる図像です。このモチーフはキリスト教時代以前から死者の魂を慰める表現として古代地中海世界に広がっていました。「よき羊飼い」は羊飼いの姿を借りて、羊たちを導くキリストを暗示する図像としてキリスト教徒に取り入れられました。羊飼いの姿のイエスが命の水の皮袋を肩にかけて、肩の上に弱り果てた小羊をやさしく担って立っている。そしてイエスの周りには何匹かの羊が安らいでいる。このモチーフには宗教を超えて人々に安らぎと慰めを与える力があります。そしてよき羊飼いの図像を見て、私たちは詩編第23編を思い起こします。
確かに、この詩編には喜びと慰めと励ましが満ち溢れています。どんなに苦しく辛い時でも、神はいつも共にいて私を励まし支え、決して私を見捨てることはない。その信仰がこの詩編には貫かれています。インマヌエル・「神は私たちと共におられる」この真理の中の真理、原真理と呼ぶべきものに心からの信頼を寄せて歩みたいと詩編23編を読む度に思います。
2025年5月12日
初期キリスト教徒が迫害を避けて、地下で礼拝を守った時代があります。1世紀末~3世紀末にかけての200年間カタコンベと呼ばれる地下洞窟があちこちに作られました。それは初期キリスト教の時代であり、ローマ帝国の最盛期でもありました。キリスト教徒たちはカタコンベに死者を葬り、礼拝のためにも集まりました。カタコンベの壁面には当時の壁画が残り、石棺には彫刻が施されています。
その中でよく使われたモチーフに「よき羊飼い」があります。「よき羊飼い」は若々しい羊飼いが小羊を肩にかつぎ、羊の前後の脚を両手でつかんでいる図像です。このモチーフはキリスト教時代以前から死者の魂を慰める表現として古代地中海世界に広がっていました。「よき羊飼い」は羊飼いの姿を借りて、羊たちを導くキリストを暗示する図像としてキリスト教徒に取り入れられました。羊飼いの姿のイエスが命の水の皮袋を肩にかけて、肩の上に弱り果てた小羊をやさしく担って立っている。そしてイエスの周りには何匹かの羊が安らいでいる。このモチーフには宗教を超えて人々に安らぎと慰めを与える力があります。そしてよき羊飼いの図像を見て、私たちは詩編第23編を思い起こします。
確かに、この詩編には喜びと慰めと励ましが満ち溢れています。どんなに苦しく辛い時でも、神はいつも共にいて私を励まし支え、決して私を見捨てることはない。その信仰がこの詩編には貫かれています。インマヌエル・「神は私たちと共におられる」この真理の中の真理、原真理と呼ぶべきものに心からの信頼を寄せて歩みたいと詩編23編を読む度に思います。
2025年5月12日
それゆえ、私は、弱さ、侮辱、困窮、迫害、行き詰まりの中にあっても、キリストのために喜んでいます。なぜなら、私は、弱いときにこそ強いからです。
(コリントの信徒への手紙Ⅱ 12章10節)
立教大学チャプレン 藤田 誠
「サードプレイスとしてのチャペル」
パウロは復活したイエス・キリストと出会ったことによって、生き方が変えられ、イエス・キリストの復活を福音(よい知らせ)として、多くの人々へ伝えてゆきました。そして、地中海地方にパウロが設立したコリントの教会の信徒へ自分自身の弱さを告白しました。パウロは、彼が弱っているとき、イエス・キリストが十字架の上で苦しんでくださったことで、パウロが持ち合わせていた痛みをイエス・キリストが一緒に担ってくれたと感じ、そして、復活によってパウロ自身が変えられた経験をコリントの人々に告白しました。それは、パウロを信じない人や他の宣教者によって教会が乱されていたかもしれないコリントの信徒に向かって、パウロが敢えて弱さを彼らに見せることにより、イエス・キリストの十字架の上での死と復活を伝えようと考えたからなのでしょう。
キリスト教と関わりが無い人々にとって、「弱さ」を肯定する立ち振る舞いは、理解に大いに苦しむことだと思いますが、パウロが実践した「弱さ」の共有の実践に近い概念を最近、よく耳にします。それは「サードプレイス」という言葉です。
プライベート空間である家庭でもなく、フォーマルな空間である学校(または職場)でもない、気軽に立ち寄れる場所のことを指し示しています。アメリカの社会学者レイ・オルデンバーグが提唱して「サードプレイス」と呼ぶようになりましたが、「みんなでひきこもりラジオ」(毎月最終金曜午後8時05分よりNHKラジオ第1)というサードプレイスのような働きをしているラジオ番組があります。ここでラジオパーソナリティーの栗原望さんは、リスナーからのお便りを紹介して、途中、リクエスト曲を挟みながら番組を進めます。
お便りの内容は「普段、誰にも言えないこと、みんなに聞いてもらいたいこと、今感じている不安や悩み、ぶつけどころのない気持ち」など、生きづらさを感じている方々よりメッセージが寄せられます。その一つひとつに栗原さんは寄り添い、ときに沈黙します(沈黙の間は焚き火の音がラジオから流れてきます)。そして、栗原さんはゆっくりとリスナーへ語りかけます。
「〇〇さんは、今、苦しいですね・・・その思いをここで打ち明けてくださり、ありがとうございます。〇〇さんの思いを聞いて、自分もそういうことがあった。一人ではなかったと救われた思いの人もいるのではないでしょうか。この番組では、読みながら考え事をしたい番組ですので、みなさんから頂いたメッセージを紹介するとき、そんなときは、完全に無音にならないように、こんな音(焚き火の音)をお届けしております。」
チャペルも「サードプレイス」の役割を果たす可能性がきっとあります。家ではなく、所属している学部でもない気軽に立ち寄れるチャペルは、いろいろな重荷を下ろせるところです。そして、チャプレンはみなさまの重荷を下ろすお手伝いをいたします。みなさまが気軽に立ち寄れるチャペル、そして、気軽に話しかけられるチャプレンたちであれますように。
2025年5月5日
「サードプレイスとしてのチャペル」
パウロは復活したイエス・キリストと出会ったことによって、生き方が変えられ、イエス・キリストの復活を福音(よい知らせ)として、多くの人々へ伝えてゆきました。そして、地中海地方にパウロが設立したコリントの教会の信徒へ自分自身の弱さを告白しました。パウロは、彼が弱っているとき、イエス・キリストが十字架の上で苦しんでくださったことで、パウロが持ち合わせていた痛みをイエス・キリストが一緒に担ってくれたと感じ、そして、復活によってパウロ自身が変えられた経験をコリントの人々に告白しました。それは、パウロを信じない人や他の宣教者によって教会が乱されていたかもしれないコリントの信徒に向かって、パウロが敢えて弱さを彼らに見せることにより、イエス・キリストの十字架の上での死と復活を伝えようと考えたからなのでしょう。
キリスト教と関わりが無い人々にとって、「弱さ」を肯定する立ち振る舞いは、理解に大いに苦しむことだと思いますが、パウロが実践した「弱さ」の共有の実践に近い概念を最近、よく耳にします。それは「サードプレイス」という言葉です。
プライベート空間である家庭でもなく、フォーマルな空間である学校(または職場)でもない、気軽に立ち寄れる場所のことを指し示しています。アメリカの社会学者レイ・オルデンバーグが提唱して「サードプレイス」と呼ぶようになりましたが、「みんなでひきこもりラジオ」(毎月最終金曜午後8時05分よりNHKラジオ第1)というサードプレイスのような働きをしているラジオ番組があります。ここでラジオパーソナリティーの栗原望さんは、リスナーからのお便りを紹介して、途中、リクエスト曲を挟みながら番組を進めます。
お便りの内容は「普段、誰にも言えないこと、みんなに聞いてもらいたいこと、今感じている不安や悩み、ぶつけどころのない気持ち」など、生きづらさを感じている方々よりメッセージが寄せられます。その一つひとつに栗原さんは寄り添い、ときに沈黙します(沈黙の間は焚き火の音がラジオから流れてきます)。そして、栗原さんはゆっくりとリスナーへ語りかけます。
「〇〇さんは、今、苦しいですね・・・その思いをここで打ち明けてくださり、ありがとうございます。〇〇さんの思いを聞いて、自分もそういうことがあった。一人ではなかったと救われた思いの人もいるのではないでしょうか。この番組では、読みながら考え事をしたい番組ですので、みなさんから頂いたメッセージを紹介するとき、そんなときは、完全に無音にならないように、こんな音(焚き火の音)をお届けしております。」
チャペルも「サードプレイス」の役割を果たす可能性がきっとあります。家ではなく、所属している学部でもない気軽に立ち寄れるチャペルは、いろいろな重荷を下ろせるところです。そして、チャプレンはみなさまの重荷を下ろすお手伝いをいたします。みなさまが気軽に立ち寄れるチャペル、そして、気軽に話しかけられるチャプレンたちであれますように。
2025年5月5日
「しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」
(マタイによる福音書 6章29節)
立教大学チャプレン 中川 英樹
「欠けがある尊さ」
吉野 弘という詩人の作品の中に、『生命は』という詩があります。
「生命は 自分自身だけでは完結できないように つくられているらしい」とこの詩ははじまって、「生命は すべて そのなかに欠如を抱き それを他者から満たしてもらうのだ」と続き、そして、「世界は多分 他者の総和」と綴られていきます。
吉野が語るところの、他者から欠如を「満たしてもらう」・・・・・ その「満たしてもらう」との本意は、補い合って欠如をなくすことではなく、欠如ある存在であることを、互いに認め合うことにあります。互いが抱え持つ、その欠如があることこそが、この世界をより素敵にしている・・・・・ それが吉野が語らんとしたことに想います。
一人ひとり・・・・・ 欠けがある・・・・・ 完璧な人間なんかいない・・・・・ だから、その欠けを埋めなくていい・・・・・ 欠けがあることを嘆かなくていい・・・・・ 欠けがあることに怯えなくていい・・・・・ 欠けを一生懸命、隠して、自分じゃない自分を生きなくていい・・・・・ 「欠け」は、決して「欠け」なんかじゃない・・・・・ 人は、「欠け」があってこそ尊いのだ・・・・・
むしろ、その「欠け」があることが、一人ひとりの存在をこの上なく際立たせている・・・・・ わたしはそう信じます。
今、世界中のキリスト教会は、共に、キリストの復活を祝う、その祝いの直中を歩いていますが、「復活」って・・・・・ 欠如ある、そんな自分を、神が、この上なく、美しく装ってくれていることを確信し、ほんとうの自分に、立ち上がって往くコトを云います。
「いのち」は一人では、絶対に「いのち」になれなくて、みんなに支えられて、はじめて、「いのち」に成って往くのです。自分じゃないモノになろうとしなくていい・・・・・ あなたには、あなたが一番好きな「あなた」を堂々と生きて往ってほしいと希みます。
2025年4月28日
「欠けがある尊さ」
吉野 弘という詩人の作品の中に、『生命は』という詩があります。
「生命は 自分自身だけでは完結できないように つくられているらしい」とこの詩ははじまって、「生命は すべて そのなかに欠如を抱き それを他者から満たしてもらうのだ」と続き、そして、「世界は多分 他者の総和」と綴られていきます。
吉野が語るところの、他者から欠如を「満たしてもらう」・・・・・ その「満たしてもらう」との本意は、補い合って欠如をなくすことではなく、欠如ある存在であることを、互いに認め合うことにあります。互いが抱え持つ、その欠如があることこそが、この世界をより素敵にしている・・・・・ それが吉野が語らんとしたことに想います。
一人ひとり・・・・・ 欠けがある・・・・・ 完璧な人間なんかいない・・・・・ だから、その欠けを埋めなくていい・・・・・ 欠けがあることを嘆かなくていい・・・・・ 欠けがあることに怯えなくていい・・・・・ 欠けを一生懸命、隠して、自分じゃない自分を生きなくていい・・・・・ 「欠け」は、決して「欠け」なんかじゃない・・・・・ 人は、「欠け」があってこそ尊いのだ・・・・・
むしろ、その「欠け」があることが、一人ひとりの存在をこの上なく際立たせている・・・・・ わたしはそう信じます。
今、世界中のキリスト教会は、共に、キリストの復活を祝う、その祝いの直中を歩いていますが、「復活」って・・・・・ 欠如ある、そんな自分を、神が、この上なく、美しく装ってくれていることを確信し、ほんとうの自分に、立ち上がって往くコトを云います。
「いのち」は一人では、絶対に「いのち」になれなくて、みんなに支えられて、はじめて、「いのち」に成って往くのです。自分じゃないモノになろうとしなくていい・・・・・ あなたには、あなたが一番好きな「あなた」を堂々と生きて往ってほしいと希みます。
2025年4月28日
「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。」
(ヨハネによる福音書 11章25節)
立教大学チャプレン 斎藤 徹
キリスト教の暦において、最も大きな喜びであるイースターを迎えました。イースターは、十字架上で死を迎えたイエス・キリストを神が復活させられたことを記念する日です。
「復活」・・・。よみがえることなど一般的には信じ得ないことです。
聖書は、イエス・キリストが十字架の死にいたるまでに受けた壮絶な苦難と痛み、恥と侮辱を克明に伝えます。またキリストは十字架を背負わされて磔(はりつけ)の場所まで歩かされている道中で、3度倒れたと言われています。痛みを負うイエス、侮辱と恥を受けるイエス、また十字架の重さに耐えられず倒れ込んでしまうイエス。それは、痛みを負うことのしんどさを、恥を抱えることの辛さをイエスが知っているということ、そして背負いきれない重荷を負わされている時には倒れ込んでしまっても良いことを、イエスが身をもって示しておられます。
しんどいなら立ち止まってもいい、辛いならしゃがみ込んでいい、重いなら倒れてしまってもいい、そしていつかそこから立ち上がっていかれればいい。キリストの十字架はそのように私たちに語りかけています。
聖書における復活という言葉は「立ち上がる」、「起き上がる」ことを意味します。何もなかったかのように元通りになることではありません。傷つき、疲れ果て、倒れ込む私たちには、立ち上がっていく日が、起き上がっていく時が与えられていく、そこに復活の希望を見出します。
キリスト教のシンボルである十字架は、キリストの受難のみを象徴しているのではなく、その先にある希望をも私たちに語りかけているのです。
2025年4月21日
キリスト教の暦において、最も大きな喜びであるイースターを迎えました。イースターは、十字架上で死を迎えたイエス・キリストを神が復活させられたことを記念する日です。
「復活」・・・。よみがえることなど一般的には信じ得ないことです。
聖書は、イエス・キリストが十字架の死にいたるまでに受けた壮絶な苦難と痛み、恥と侮辱を克明に伝えます。またキリストは十字架を背負わされて磔(はりつけ)の場所まで歩かされている道中で、3度倒れたと言われています。痛みを負うイエス、侮辱と恥を受けるイエス、また十字架の重さに耐えられず倒れ込んでしまうイエス。それは、痛みを負うことのしんどさを、恥を抱えることの辛さをイエスが知っているということ、そして背負いきれない重荷を負わされている時には倒れ込んでしまっても良いことを、イエスが身をもって示しておられます。
しんどいなら立ち止まってもいい、辛いならしゃがみ込んでいい、重いなら倒れてしまってもいい、そしていつかそこから立ち上がっていかれればいい。キリストの十字架はそのように私たちに語りかけています。
聖書における復活という言葉は「立ち上がる」、「起き上がる」ことを意味します。何もなかったかのように元通りになることではありません。傷つき、疲れ果て、倒れ込む私たちには、立ち上がっていく日が、起き上がっていく時が与えられていく、そこに復活の希望を見出します。
キリスト教のシンボルである十字架は、キリストの受難のみを象徴しているのではなく、その先にある希望をも私たちに語りかけているのです。
2025年4月21日
「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」
(マルコによる福音書 13章31節、マタイによる福音書 24章35節、ルカによる福音書 21章33節)
立教学院チャプレン長 広田 勝一
2025年度の学園生活がスタートしました。皆様の上に主の導きと祝福をお祈りいたします。そして日々の生活の中で、聖書のみ言葉との出会いがあることを希望します。
八木重吉の詩を紹介します。
この聖書(よいほん)のことばを
うちがわからみいりたいものだ
ひとつひとつのことばを
わたしのからだの手や足や
鼻や耳やそして眼のように
かんじたいものだ
ことばのうちがわへはいりたいものだ
この詩には、聖書を読もうとする私たちの心構えが述べられています。私たちは聖書の各文書が書かれた事実を学ぶことも必要ですが、何よりもそこに記されている言葉、特にイエスと心を通わせて読むことが大切です。単に知性と感性をもって読むだけでなく、深く味わうことが大事です。つまり「ことばのうちがわへはいりたい」のです。
詩編の詩人は「あなたの言葉は私の足の灯。私の道の光」(詩編119編105節)と語ります。以前の新共同訳では、「あなたの御(み)言葉は、わたしの道の光。わたしの歩みを照らす灯」と訳されております。詩人の信仰を踏まえると「御言葉」のほうが相応しいかと思います。
この「御言葉」は、具体的には「聖書の言葉」です。聖書を通して語られる神の言葉、これが「御言葉」であります。しかもそれは聖霊によって私たちの心の中に響く言葉であります。私たちの頭だけではなくて、私たちのすべて、全存在を持って聖書に耳を傾けていくときに、この「御言葉」との出会いが生まれ、「足の灯、道の光」となります。御言葉に導かれて、御言葉に支えられて生きる歩み、これが詩人の信仰でした。
今週は、受難週となります。18日金曜日はイエスの十字架を想起し、20日に復活日を迎えます。聖書を通して、イエスの十字架、そして復活は、私たちに何を語ろうとしているのか、味読していきたいのです。
イエスは「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」(マルコによる福音書13章31節、マタイによる福音書24章35節、ルカによる福音書21章33節)と語ります。今週も聖書を通して語りかけてくる神の言葉と出会っていきたいのです。
2025年4月14日
2025年度の学園生活がスタートしました。皆様の上に主の導きと祝福をお祈りいたします。そして日々の生活の中で、聖書のみ言葉との出会いがあることを希望します。
八木重吉の詩を紹介します。
この聖書(よいほん)のことばを
うちがわからみいりたいものだ
ひとつひとつのことばを
わたしのからだの手や足や
鼻や耳やそして眼のように
かんじたいものだ
ことばのうちがわへはいりたいものだ
この詩には、聖書を読もうとする私たちの心構えが述べられています。私たちは聖書の各文書が書かれた事実を学ぶことも必要ですが、何よりもそこに記されている言葉、特にイエスと心を通わせて読むことが大切です。単に知性と感性をもって読むだけでなく、深く味わうことが大事です。つまり「ことばのうちがわへはいりたい」のです。
詩編の詩人は「あなたの言葉は私の足の灯。私の道の光」(詩編119編105節)と語ります。以前の新共同訳では、「あなたの御(み)言葉は、わたしの道の光。わたしの歩みを照らす灯」と訳されております。詩人の信仰を踏まえると「御言葉」のほうが相応しいかと思います。
この「御言葉」は、具体的には「聖書の言葉」です。聖書を通して語られる神の言葉、これが「御言葉」であります。しかもそれは聖霊によって私たちの心の中に響く言葉であります。私たちの頭だけではなくて、私たちのすべて、全存在を持って聖書に耳を傾けていくときに、この「御言葉」との出会いが生まれ、「足の灯、道の光」となります。御言葉に導かれて、御言葉に支えられて生きる歩み、これが詩人の信仰でした。
今週は、受難週となります。18日金曜日はイエスの十字架を想起し、20日に復活日を迎えます。聖書を通して、イエスの十字架、そして復活は、私たちに何を語ろうとしているのか、味読していきたいのです。
イエスは「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」(マルコによる福音書13章31節、マタイによる福音書24章35節、ルカによる福音書21章33節)と語ります。今週も聖書を通して語りかけてくる神の言葉と出会っていきたいのです。
2025年4月14日